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神道大教の歩み  写真に見る大教院の幾星霜 歴代管長のモニュメント  皇典講究所から国学院へ  神道大教教歌  年譜 
明治百年を契機として、わが国にも次代への反映に向かう一つの転機をつかもうとしている。この時期に当たり、文字通り明治百年を歩んできた「神道」の歴史は、長い封建制から脱した日本民族の精神史である。昭和維新といわれる今日、神道大教の歴史を概観することにより、明治百年の神道史をひもといてみよう。
封建制から近代文明への夜明け
神道総裁 有栖川宮幟仁親王
明治維新は日本の近代社会への第一歩であり、三百年にわたり欝積された民族の要求不満の爆発点でもあった。徳川幕府は幕府維持の最大網目として、封建制度による幕府中心主義と日本孤立主義を持って来た。而し大名は参勤交替や幕府の土木事業の手伝などで、窮乏し、八百万石の大大名である幕府も役人が次第に贅沢を憶え、奢侈欲に流れて行くとその政費の収支の平衡を失い、無理に貨幣を改鋳したり、商人から借金をして一時しのぎをするようになった。
特に天明、天保の大飢饉は徳川幕府の寿命を縮める遠因となった。米騒動、百姓一撥に人心は荒れ、富の集中する都会では、刹那的な享楽主義に淫靡の風が世の上下を包んでしまった。
当時ポルトガルやオランダを圧えて東洋貿易を独占しようとしていたイギリスは、中国と交易して、日本に迫ろうとしていた。ロシヤも千島を侵し、更に北海道を手に入れようと窺っていた。そして徳川幕府にとっては獅子身中の虫ともいうべき水戸学の欝然たる興隆である。
水戸学即ち水戸藩学は、全沢伯民(安)、藤田東湖の碩学によって体系をなし、尊皇、勤皇をロにするものは挙って水戸に集った。その中心思想が国体明徴、皇道第一主義ということから勢い征服者である幕府を否認し、天皇の親政を正道なりと説くのであるから、幕府にとってこれ程恐しい思想はない。  やがて安政の大獄があり、その報復として桜田門外で井伊大老が襲撃きれ、遂に薩長は聯合して倒幕の挙に出たのであった。 
慶応三年十月十四日(一八六八)徳川慶喜は政権を天皇に奉還した。
 この水戸学が回天の事業の原動力となり、封建制度の矛盾が人間的自覚を促し、西洋文化の刺激によって三百年の停滞を一気に乗り越えようとした国民全体の近代意識が維新の大業をなし遂げたといえよう。
維新の神道理論と国民の倫理
神道はもともと仏教に対して生れた言葉で今日神道といえば神社を中心とした日本の民族宗教だということを知っている人は多いが神道のもつ思想を知る人は少い。仏教の伝来(五三八)以前は、神道を神道と言っていなかった。当時日本には国土創生の神々や自然神、或は民族の祖先に対する信仰があったのみで、他に宗教がなかったからである。
神道用語以前の神道を古書によると「かんながら」 (惟神) 「かみながら」 (随神)といい、神の恩召しのままに随い行う道である。即ち政治の面では主権者天皇は神の摂理に従って天下を治め給う。下臣民はこの体制は神代より定まったことで此かも論ずる必要はない。神習いに習って化育の成果を見る。そこに神人融合のよき社会が生れ、他になにものも求める必要のない国家が持続される。こうした政治形態を故人は皇道と言い神道といった。また一方人間の生活面では、古書に「我が御世の事、能くこそ神習はめ」とあるように、神習うことによって生活の秩序を持てと教えてある。つまり神様の御事績御神徳を見習い自らの生活信条とすることである。
文明が進み人間の生活形態が変って来た今日においては、往時そのままの政治体制は勿論、神道思想においても大きな変遷があった。 
 明治維新のように復古することが常態に復することであり、新生への原動力となったのであるが、その根底には、神道精神がふつふつと湧き出して人間の汚れ曲らんとする精神を矯めていたということも忘れてはならない。
明治維新の推進力となった国体観念は水戸学によって培われ、国学によって肥培され、薩長二藩の武力と相挨って出来上った。
新政の大方針たる五箇条の国是を天下に公表するに当って之を天神地祇に誓い、また太政官七科の上に神祇官を置いて神祇を尊重する古代の精神に復そうとした。この宗教改革は見事なもので、仏像をもって神体となし、本地と唱えて仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘などの仏具を以って飾った従前の神社よりこれを取り除き、また神号に仏号(菩薩、権現、天王等々)をつけたのを禁止して純一無雑な神道に立ち帰えらせた。これを後の言葉で廃仏棄釈といった。一千年に亘る仏教の日本布教の手段はここに大きく留めを刺されたともいうべきであろう。さらに社僧の僧籍にあるのを忌み…諸国大小の神社で僧形僧服で別当或は社僧などと称えている者はこの度の神仏混肴御廃止の趣旨に基き還俗の上、僧位僧官を返上し神主、社人の称号を用い、法衣を脱し、風折烏帽子、浄衣、白指貫を着用すべし―ときつい規制を施している。これは仏教に対する弾圧でも何でもないのであるが、国学思想に培われた皇国尊皇の思想が維新を神武の創業と見て、祭政一致の機構を立てる為神祇官を復活、神道諸家(例えば白川、吉田)等に附属していた神社を全部神祇官の所属にして上古の祭典をも復興させようとした。いわゆる純神道の標榜である純一無雑の神社の出現を画ったのである。
神仏判然の令が出て、全国の神社より一応仏教的な色彩が外され祭祀、祀典を興すことは出来たが、それだけでは何か物足りないものがあった。それは今までになかった神道(皇道)の布教と言うことだと気がついた。そこで明治二年七月宣教使の官を置き神祇伯(白川資訓)をしてその長官を兼ねさせ、初めて宣教という仕事が始った。 
明治三年正月三日、神霊鎮祭と大教宣布の詔が下された。

「神道は神明を崇敬し国民を愛する処から始まる。先づ天神八百万、地祇八百万、及び列皇の霊を神祇官に祀って祖先神の恵みに応えようとする。国民のすべては私と共に謹んでこの道にのっとり、神道を全うしてもらいたい」明治天皇の聖旨はこのようであった。また同時に大教宣布の詔が出されている。 
「謹んで国の初めを考える時、天神、天祖が立派な基を開いて下さって歴代の皇祖は厚く神を祭りその心でもって政治を正してきた、その結果、上下に敬愛親和のよき国柄が出来上った。処が中世以降時には逆臣が出て政道も乱れ、外教が入って治教も混沌としたが、維新の今日は百般改って心気一転すべき時である。先づ国の教えのもとである神道を興して。国民精神作興の基盤としなければならない。従ってここに宣教使を任命して神道の布教に当らせる。臣民共々このことを篤く心得るべきである。」 
この二大聖詔によって神道は愈々我国の国教として、天下の大教として宣布される時が来たのである。
宣教使は神祇官から出た宣教心得書に依り全国を廻り神職、村長、地方知名人等を集めて巡回布教をした。過去の神道は祀典が主体であり、神道といえば祭祀の儀式を以って象徴されて居たようであるが、それは宗教の末文化で、人知進化の文明社会においてはそれだけでは宗教といわれない。大教宣布の詔を契期として神道が少くとも教義学的なものを持つようになったことは神の摂理を知り、神明の何んたるかを考える国民を作るのに非常に役立った。明治四年神祇官は規模を拡大して神祗省になり、続いて教部省になった。この教部省になったのも大教布教の中核を堅持する為で、神祇官の在り方が祀典中心であるため、宣教使活動が充分出来なかった。それらの理由が潜在した神祇官に御鎮座の天神地祇八神の両座は宮中に御遷座になり、祭事は式部寮において執行することになった。したがって教部省の仕事は一段と教化活動に重点を置くことが出来るようになった。
教部省はさらに宣教強化のため、その中央機関として大教院を設け、各府県枢要の地に中教院が新設され、神道の統一的布教のセンターとした。もともと大教院は仏教側の提案で出たもので、彼等が排仏毀釈の対応策として神、仏、二道一致して外教(基教)に当るという口実で建案、これを教部省が許可して六年の五月二十一日に講学機関として麹町紀尾井町紀州長屋に仮大教院を設け、後日之を芝の増上寺に移した。増上寺では大殿の須弥壇を取り、祭壇を設けて神官、僧侶合同で遷座祭を行った。程なく旧神祇官の八神殿が下賜され、これを神殿として天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大御神の四柱を奉斉した。当時、神道側の有力者には千家尊福(出雲大社国造) 田中頼庸(伊勢神宮大宮司)があり、仏教側でも渥美契緩、鈴木恵淳等著名な僧侶がこれに参画している。
かくて大教院は神道の総本山として皇道発揚に歴史的な役割を果した。明治七年には全国でその存立を闡明にしている。中、小教院二八○、教導職数七二四〇を擁した。このままで行けば世界の宗教史に類のない制度が出来たが、然しその組織上の重大な過失があり、早くも八年五月には大教院は解体を余儀なくされた。
それはたまたま七年頃より西洋思想が入り、古いものへの批判が高まって来た。いわゆる欧州より帰った真宗の僧侶、島地黙雷は、神仏合同の国教布教を不定見なるものと評して、先づ真宗系の宗派を大教院から脱退せしめた。これについで仏教側は相ついで大教院を脱することになった。それによって神仏合同の布教制度は崩れていった。これに代って八年三月神道事務局が創設せられ次いで大教院は神道側独自の講学布教機関となり名称も神道大教院と改称した。 
明治九年一月、当時は全国の教導職を四部に分けて統轄した。各部の管長は第一部千家尊福、第二部久我建通、第三部稲葉正邦、第四部田中頼庸等であった。これらの制度も後に祭神論争が起って崩れ去り、この論争を納めるために結局勅裁をあおぐこととなった。その結果管長に代えて十四年二月有栖川宮幟仁親王を神道総裁に、副総裁に議官岩下方平がそれぞれ任命された。これというのも神道界の騒擾を治め、節を正し、皇道に瑕瑾なきを期するためで、如何に皇室が神祇に支えられ更に民心収覧のキイポイントが神道におかれてあったかがわかる。 
この年四月、事務局は駿河台北甲賀町に移った。明治十五年一月二十四日、内務省は政教分離の通達を発し、神官の教導職兼務を廃した。祭神論争以来政府は、神社の宗教化に極めて神経質になり、国体護持の上から思想的論争をさけ、また国際信義や自由民権思想の輸入によって、信教の自由も考えなければならないし、さらにデモクラシーの思想は国民全体を政府の批判者に育てていった。そして近代文明における封建思想の打破は先づ神道界に現れたといってもよいであろう。
神道本局の誕生とその性格
明治十五年三月には、有栖川宮は総裁を免ぜられたが、特に在京の六級以上の教導職が連署を以って御願いしたので再び神道総裁に御就任になった。同年五月には神宮教会以下五教会の別派独立があり、八月には麹町区飯田町に皇典講究所が創建せられ、総裁宮がその総裁を兼務されることになった。明治十七年八月太政官布達が発せられ、内務省が所管していた教導職の任免権を解放した。
ここにおいて神道も政府の手から一応離れて自由の身になった。総裁宮は専ら皇典講究所にその御名を見るようになった。
神道事務局では太政官布達に従って協議の結果従四位稲葉正邦を管長に推した。稲葉正邦脚は神道事務局創設当時からの中心人物で旧淀の藩主である。卿の敬神尊皇の至誠は実に偉大なもので明治の神道史にその業蹟は光彩陸離たるものがある。稲葉管長は就任と同時に、神道教規の草案を作成、分局長直轄教会長を招集し審議せしめその決議になったものを内務省に出願して認可を得た。これによって神道事務局は神道本局と改称せられ、半官半民的な従来の色彩を一変するに至った。  
教規第二条に「宮中所斉の神霊を奉戴し殊に天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、須佐之男神、皇孫命、大国主神、天津神八百万、国津神八百万の神を奉祭す」とあるのをみてもわかるように、その昔大教院の祭神論争で聖慮を煩し決定した宮中所斉の神霊の外に神道教学の思想的中心となる造化三神、並びに大国主神等を主神として祭り、神道の拠って以って立つところの理念中枢を判然とした。
神道各派独立後の神道本局
神官の教導職兼務分離により、神社と大衆の間にあった信仰的親和感も薄らぎ、宗教的救済も乏しくなるに従って、病的苦脳を持つ大衆や社会的不安を抱く人々はそれぞれの救いを求めて水が高きより低きに流れる如く独創的教会へ流れ込んだ。教会ではこれら悩める大衆を受け入れて教勢は日々発展を辿るに至った。中でも禊教は明治六年頃吐普加美講と唱えられていたものが、二十七年には信者の数も増大して本局から別派独立することになった。続いて三十三年には金光教会が別派独立を出願して許可され金光教を名乗り、また四十一年には天理教会が独立を許されたのを最後に、世にいう神道教派十三派が出来あがったのである。(黒住、修成、神習、大成、實行、扶桑、大社、御嶽、神理、禊、金光、天理、本局であった。)
当時の神道本局の幹事野田菅麿氏は幹部と議り、また金光教会の佐藤範雄氏、天理教会の前川菊太郎氏等と協議して、本局新築の案を立てた。この案は部下分局教会等の賛同を得る処となって浄財が集り、西麻布の今日の地に明治二十九年竣工落成を見ることが出来た。
この間日清戦争の一大困難に遭遇して国民は挙げて外敵に当った。この戦争を契機に、神道も世人の崇敬を高めることとなり、いよいよその内容の充実に拍車をかけることになった。
明治三十一年五月、初代稲葉管長は糖尿病に罹られ、同七月十五日六十五オをもって世紀の波乱を乗り越えた偉大な人生を閉じられたのであった。
第二代管長には旧館山の藩主従三位子爵稲葉正善卿が就任された。幹事は依然野田菅麿、平岡好国の二氏で、管長補翼の任に当った。局の内外共に充実期にあったので、教勢の拡張を図るべく教師検定の規則を制定、人材登用の道を開いた。幹事野田菅麿氏は二十七年山口県の分局長であったのを抜擢して本局幹事に配した逸材で、本局教務の大刷新に大きな功績を立てた。其の後幹事を神崎一作氏に譲り四条畷神社の宮司となり、次いで官幣大社生国魂神社、さらに熱田神宮等の宮司となった。
明治三十五年三月、管長稲葉正善脚は肝臓病にて甍去なされた、六十七オであった。 
第三代は初代管長の御姻戚に当る旧膳所の藩主従二位子爵本多康穣卿が就任された。時あたかも日英同盟締結の年であり、露国(ソ聯)の日本侵略を如何にかわすかと云うときで、英国と結び露国の勢力を満洲 (中国北部) から駆逐することを画ったが、露囲宮廷内のタカ派擡頭によって極東の平和は見失れてしまった。三十七年二月八日旅順において日本海軍が第一戦の火蓋を切り、日露戦争に突入することになった。本局では、この未曾有の国難に際して全面的な奉任が行われた。
明治四十二年、大教の国家奉仕の功績が天皇の嘉みせられる処となって、三組金盃が下賜せられた。
明治四十五年二月十八日、本多管長は御齢七十八オをもって至純の一生を閉じられた。この年十月には本局の教規、教則を改定して内務省の認可を得、これが施行された。この度の改正の主眼点は金光、天理の二大教会独立後の本局の在り方について各種の角度から充分討議されたもので、特に教院の性格、布教の体制については従来種々論議されたが、純度高い神道の布教は明治三年の大教宣布の詔勅の精神にのっとらなければならないとの観点で、神道本院を廃し、かっての神道大教院として再現、今日に至る神道教学の源泉として、また神道の高度理念の発生地としてその綜合的神道信仰の中核性を持続して来たのである。
神道本局の性格も次第に純度を増し、神道の宗教的普遍性を高めて行った。大正三年七月、顧問であった従二位子爵長谷信成卿が第四代管長となられた。
「西洋文明の浸潤は国民を華美、浮薄の風に流さしめ、利権、欺瞞、詐偽の社会現象を起すに至った。これはわが国固有の神道を忘れ、西洋の物質文明に魅せられた結果である。すべからくこの悪風を矯め、社会の教風を振作、人心を皇国本来の精神に培い、質実剛健なる気風を以って国体の擁護、国力の充実に貢献しなければならない」 ということで四綱領十四力条の規約を作り、「明道団」という組織を作り神道教師が国家社会に尽すための実践 運動が展開された。
大正十一年一月、長谷管長は甍去され、幹事長の神崎一作氏が管長事務取扱の任につかれた。大正十二年九月一日に関東大震災が起り、東京は未曾有の大災害を受けた。神道本局は幸いにも災を免れ、被災者の救助に局員全員が一丸となって当った。大正十四年三月、管長事務取扱の神崎一作氏は、部下教師多数の推薦によって管長の任に就かれた。神崎管長は大山分局生徒寮に入り、権田直助翁に師事し、後哲学館東洋大学及び国学院等に学び、明治二十九年神道本局に勤務、稲葉、本多、長谷と三代の管長に仕へ、信仰、教学、教務共に深い造詣者であつた。
昭和九年四月には神道本局六十年祭が盛大に行われた。これに先立って六十年記念事業の一環として、神殿の改築があり、また同年十一月には祖霊殿の改築地鎮祭が森田幹事の斎主で行われ、宣教殿教務所の新築工事も共に進められた。一方六十年を記念すべく神崎管長執筆による「神道六十年史要」が出版され後世にその沿革と意義を伝えた。
昭和十三年三月、神道本局はいうに及ばず広く神道界に、さらには宗教界に不滅の業績を遺された神崎管長は七十一年の生涯を静かに閉られ、神の御許に旅立たれた。明治二十九年神道本局に奉仕されてより四十二年間、至誠の人と呼ばれ、神道諸学は勿論、一般教養学に深い学識を持たれ、政府機関である宗教制度調査委員、神社制度調査委員等を歴任、またその著述も多く「大祓新釈」を始め二十二部の著書を公にされている。神崎管長亡き後は林五助幹事が管長事務取扱いとなり、翌十四年四月管長選挙に当選して、第六代管長となられた。
その頃、軍国政府の言論思想、宗教に対する圧迫は次第に厳しくなり、遂に昭和十五年宗教団体法施行に当り、当局より神道本局にも教名の変更が妥当ではないかということを勧告され、大会議を開き慎重審議の結果、明治三年の大教宣布の詔にのっとり、神道が国教と定められ、その聖旨に添うべく神道事務局が創設せられ、やがて神道本局(史学の上では「神道」をこのように呼んだ)に受け継がれた。その由緒をもって神道に大教を結び「神道大教」と改名した。また明治の昌代、神道を大教と呼びならした例にものっとっている。神道大教とは神道中の神道であるという内容をもったもので、神道が将来大いに発展する宗教であることを暗示している教名でもあった。
昭和二十年三月、管長宅は空襲による業火に取り捲かれ、林管長は惜しくも禍神を諌言するため昇天された。
英明なる林管長は神道本局百年の基礎を作るために勇断をもって教名を「神道大数」と変えられ、神道本局組織を改更、学院を創設、信徒の参籠所なども建設して大いに神道大教の威信を高められたのであった。 
同年十月二日、管長代務者森田作次総監は、管長選挙により第七代管長に就任された。
森田管長をまっていたものは、敗戦による 米軍の神道(特に神社神道)を徹底的につぶそうという考えと、自失した国民が信仰からはなれて行く姿であった。
昭和二十六年四月三日、民主主義体制の国会において審議可決を見た宗教法人法が公布された。神道大教も同法によって教規を改正し、文部省の認証を求めた。文部省は二十七年二月十八日これを認証したので、全国所属教場に新教規を施行、各教場ではこれに従って規則を作成し、所轄の知事の認証を経て、宗教法人として登記された。
この頃になると物心共に落着きをみせ、敬神の念も民衆の心に立ちもどりつつあった。
昭和二十九年三月二十八日、神道事務局創設八十年記念祭が全国教師信徒の奉賛で盛大に執行きれた。
戦後遠ざかっていた全国の教信徒は、この盛儀に会い大教院大神様の膝下に吾が生ける喜びを報告しようと馳せ参じた。戦後の忍従の生活に生き抜いたのは神の支え、さらに神の恵みによるものだと参拝者一同は深く心に合掌したことだろう。
三十一年春、神道大教会議は、大教院の本建築御造営の件を可決して、造営奉賛会が発足した。
三十七年四月二十一日、内外の工事は完了し、大教院は壮厳なる偉容を麻布の丘に輝かすことになった。この間全国の教師信徒の奉賛は続々と集り、当初危ぶまれた工事費も把憂に終ったのだった。
この間、森田管長は再度病に倒れ、三十二年十一月には危篤状態となられたが、至誠神に通じ奇蹟的な恢復をみせられ、神恩に報いる悲願を達成された。
本局創設九十年祭りの盛儀が大教院の真新しい神殿で行なわれた三十九年の五月戦後の大きな苦難を乗り切ってこられた森田管長は七十八オの生涯を静かに閉じられた。現管長品田聖平氏は永らく国学院大学に奉職された方で明治の神道家父俊平氏の遺鉢を受けて心教大教会の主管となり神道本局に属してこられた。
柔道家、歌人としても一家をなし神道実践家としては豊富な経験を持っておられる。品田管長は大教創設百年祭を四十九年に迎えるに当って教団の現代的な発展を企画せられ、民族宗教神道をもって日本人の心の灯とするため教学を作興、諸施設を拡充して神道的理想郷を作ろうとしておられる。
(東京ライフ社刊 東京ライフ「明治百年と神道大教」より転載)
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